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贋作の誘惑

友人の薦めでNHKの番組「贋作(がんさく)の誘惑 ニセモノVS.テクノロジー」をオンデマンドで見ました。
番組では逮捕され収監されたベルトラッキを取材していました。
彼は出所後、講演活動をし手口を自慢げに話しています。

彼を診た精神科医は「オリジナル作家の空白(足りない部分)を満たす営み」と好意的に話します。
番組も「本物であることに価値はあるのか?」とスタンスは犯罪者寄りの編集に思えます。
映画の世界で、悪者から大金を騙し取るのとは違う、現実に起こっている犯罪を肯定的に扱うことは注意が必要だと思います。
精神科的な見地からは現代的にいうなら、多様性と言う事なのかも知れません。
しかし、私たちが真に多様性を許容し共存するにはルールは必然です。
そのルールを逸脱した行為を賞賛する事は、元総理大臣の暗殺容疑で現行犯逮捕された容疑者を支援する事に等しいと理解しなければいけなくありませんか?

私は過去に「真のオリジナル」というものが存在するのだろうか?
という事をテーマに個展「視覚の終焉」をした経験を持ちます。
人はこの世に産まれ、成長する過程で必ず、様々なものに触れ影響を受けているはずです。
創作の際に、それらにまったく影響を受けずに作品を創るなんてありえません。
そんな疑問から、パクっただの盗作だのということよりも「まずは心で観てみましょう」という意味でその個展を企画しました。

日本には本歌取り見立てといった有る意味、真似を賞賛する文化を持ちます。
例えば、「風神雷神図屏風」は俵屋宗達が描きましたが、尾形光琳や酒井抱一が後にまったく同じ絵を描いています。
だだ勘違いしてならないのは、それらは決して真似や盗作とは違う観点で創られたものということです。
形あるものはいつかは失われると考え、その時代々で再生産し作品や作者の精神を継承しようと考えたのです。

私自身、マン・レイのバイオリンとそっくりな作品を作りました。
理由は、コンペの世界で盗作の様な類似作が蔓延していることに対する問いかけをしたかったからです。
過去に高い評価を得た作品を真似た作品も、もともとの作品を知らないジャッジは真似た作品を高く評価してしまいます。
(ここではあえて、偶然ではなく意図的に真似をしたものを差します)
ならば、誰もが知るであろう作品とそっくりなもの(マン・レイの肖像画を一緒に写し込み、タイトルにもマン・レイに捧ぐと付けた)を作った場合、彼らはそれをどう評価するだろうか?
結果は1位という形で帰ってきました。

また、創った作品が誰かのものと似ていたと言う事も経験しています。
逆に私が受賞した作品そっくりなものもたくさん目にしました。
「故島さんのアイデア借りました」と言ってくれる人もいます。
それらをとやかく言うつもりはありません。
むしろ他者がインスピレーションを感じてくれたことを嬉しくさえ思います。


したがって似ていたから盗作という訳ではありません。
本歌取り、見立てやオマージュといったものはオリジナル作家へのリスペクトから産まれるものであり、儲かるからと意図を持って近似作をつくり、とぼけるのは訳が違います。
それらをごちゃまぜにしてしまうことは、美術を非常に危ういものとしてしまうのではないでしょうか?

現代の美術(アート)というものは、それを作った作者に利益をもたらし作品創作の継続を助け、経済的に存続させるものでなければならないと思います。
故に、作者を偽り他者になりすまし巨万の富を得るなどは言語道断。

図らずも写真界で盗作が話題となっていますが。

なぜ、その才能や努力を違うかたちで使えなかったのか?
それを惜しまずにいられません。

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