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鬼籍に入る

8/30に母が永眠しました。
享年84歳でした。

最初は、昨年のお盆に腰痛が悪化し入院したのが始まりです。
コロナ禍、面会も許されず、遠い徳島市に一人ぼっちで寂しがり「帰りたい」と毎日せがまれました。
リハビリを開始して間もなく、コロナ感染。
その後は、食欲減退。
リハビリも進んでしなくなり、ほぼ寝たきり状態に。

病院も症状固定だと1ヶ月以上は入院させてもらえません。
3つ目の病院では、食事も取らずに痩せていく一方。
次第に持病の腎臓も悪化。
帰りたいという母と、治療の狭間で家族もほとほと困り、地元で長年お世話になっているホームドクターの内科医に相談すると、CVポートの手術をして中心静脈栄養をするということで、受け入れてくれました。

地元へ帰ることが叶った母は、元気も出てリハビリも再開。
まだ、面会は出来ませんでしたが、ほっとしました。
しかし時折、熱を出したり、気分が乗らないとリハビリを休み始めました。
腎臓の悪化はしだいと進行し、気力・体力ともに奪って行きました。
今年の5月コロナ規制が緩和され、面会が許可されてからは、許された週1回の面会を喜んでいました。


毎日の面会を許されてからは、お昼と夕方に父が母の食べたいものを差し入れし、食べさせていました。
父が風邪を引き、私が代わり母の元へ。
私が出張の時は、姉にバトンタッチ。
母の食欲は日替わりではありましたが、そう大きな変化は無かったので、しばらくはこんな感じで時間は流れると、その時は思っていました。

復調した父にまた交替し、ちょっと疲れてるのが見えたので、私が行き始めた3日目。
コロナ感染者が再び増え始め、病院も面会禁止措置を取らざるを得なくなったのが8/28の月曜日。
そして運命の8/30、朝5:22 病院から電話が鳴りました。
当然、脳裏に母の事がよぎりました。
電話は、母の容体が良く無い。でも来てもらえない(面会禁止なので)という内容。
非常に危険な状態であることを理解しました。
具体的に聞くと、前夜より高い熱が出て現在は、血圧も測れないくらいで酸素吸入している状態であると。

父を起こし、内容を伝え「今日が山場」で覚悟するように伝えました。
どうせなら連れて帰ってやりたいという父と、どうすればいいか相談していたその時、再び電話が。
7:02、母が息を引き取った事をを知らせる電話でした。

母は二十歳で嫁いできました。
町役場に勤める父は安月給でしたが、洋裁で家計を助けました。
優しいく料理上手で綺麗な母は自慢でした。
私が独立後は、子供達の面倒も見てくれ、孫からも愛されるお婆ちゃんでした。

私に芸術的才能があるのだとすれば、それは間違い無く母から貰ったものだと思います。
夏休みにポスターを描きますよね。
その案を考えてくれるのは母でした。
子供のころの入選は母のお陰です。😄

今日は初七日なので、出社前に父と妻と3人でお経をあげました。
なんだか、今も病院にいるような気がして、まだ実感がわきません。
この年になって、親孝行が出来ていなかったことを思います。

ここ最近は「帰りたい」と言わなくなっていたのは身体の調子がよくない事を自覚していたのだと思います。
最後に会った日。
刺身だけは食べられる母に、すだちブリを買って行きました。
この日、初めて「世話を掛けるな。早くよくって帰らないと」と言いました。
こんな言葉は、初めて聞きましたが、そんなことは、あり得ない事を母も解っていたと思うのです。
でも、それも虫の知らせだったのかも知れません。
私が手を握ると強くにぎり返し、半分泣き顔に。
「そうだね。じゃあまた明日来るから」
それが、最後の会話となりました。

人は生まれた時から、死に向かって歩きます。
この運命からは逃れられません。
いつか来るその順番。
解っていても、とめどなく流れる涙。

戒名 優美院晃誉心悦禅定尼 
優という文字は人を百、愛すると書いています。
本当に沢山の愛を、ありがとうございました。
 

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